すべて失ったときに、見えてくる愛しき想いとは – ボイスメッセージ

すべて失ったときに、見えてくる愛しき想いとは

よく…“足ることを知れ”と言います…。
失ったときに、沢山の愛しきものがあったことを知ったりもします…。

前も話したことなのですが、あるボランティアをしている友人が、家を流され、何もかも失い、家族が死んでしまった、そこに私の友人の彼らはボランティアで行きましたが…
夜、焚き火を焚いて、飯ごうで食事をみんなでしながら泣いたそうですね。だけど、そのときに、ボランティア側の人は体験する側で、その失った人は、「本当にありがとう、ありがとう。」と言いながら、泣きながら、愛しいですと言って泣いてたそうなんですね。

それは、愛しい、助けてくれる人、何もかも失って、ゼロに戻っている、いや、マイナスに戻っている、
そこから見たら、それでもなお、損得なく助けに来てくれる人たちがいて、ご飯が食べれて、命がまだある、命もあって、要は、足る部分を見て、愛を感じ、感謝を感じるということなのかもしれませんね…。

まぁ、僕も愛する人を若き日にスキルス癌で失いました。
そのときに、タクシーに乗ったときにも…普通なら隔たっているのに、隔たりがなくなって、自分の悲しみや痛みを平気で伝えている自分がいたんですね。
そのあまりの苦しみ、腰が抜けるほどの衝撃のときに、何か、自分の殻が割れたような、そんな体験をしました。
今、昔の、20何年も前のMARTHの音楽がかかっていますが、この今かかっているのは「手紙」という曲ですが、この中の詩が
“悲しいのが好きになりました。鳥たちが美しく見えます…。優しいのが好きになりました。痛む胸と同じ分だけ…。時がすぎて春になれば鳥たちは北へ向かいながら、巡り巡った人生の駅は、終着駅から始まってゆくのですね…。”みたいなかたちで、綴られているわけですが、
終着駅…失ってから始まる…また、なぜ悲しいのが好きになったのか…。それは、鳥が、鳥たちが美しく見えるからです…。
優しいのが好きになったのは、それまでバリバリやり手でやってた自分よりも、痛む胸が、もしかしたら嬉しかった…。悲しみが嬉しかった…。自分がしょっていた枠組みが、自分の殻が壊れた。
地位も名誉も、家も、愛する人も失った…これはネガティブなことに一見みえるのですが、失うほどに愛は深まり、自分の殻は壊れ、叫ぶような、空港で、または病院で、愛してるんだって叫ぶようなことができたり…なんと言ったらいいのでしょうか…。
要は、人類が長年、得ること、得ること、プラスのことを考えてきましたが、美しき空気や水、また、生命…。片足を失っても、まだ身体があった。というような、相対的なものが、私たちの心理的なところに、深く根ざしているのだと思います…。
何を失っても、愛しさは増えるばかりだ…。
逆に、増えれば増えるほど傲慢となり、失う恐怖、奪われない戦い。対立や、隔たり。
失われる恐怖…。戦い…。そのようなものにさいなまれるのかもしれないなぁ、などとも感じます。

今、人類はパンデミックということになっている世界の中で、いろいろなものを失っているかもしれません…。
逆にいうと、僕も上場会社やそういったものを全部やめていったときの、そのときの想いは失えば失うほど、いや、捨てれば捨てるほど、純化され、新しい道が生まれ、幸せになってゆきました…。
沢山の人がいろんなものを失うのだけど、実は新しいものを見つけることができるわけです。
逆に言えば、いらなかったものをいると思ってきた。
本当は必要なきものをいると信じてきた…ということも、あると思うのですね。
今まで、いると思わされてきたもの、もしかしたらそれは、人類の愛にとって、良きものでないものだったかもしれないし、自らの本質や愛や、自らの隔たりのない美しさや輝き、それを封じ込めていたものかもしれないのです。
私たちは今、そのようなことに気づかされているのかもしれません…。
持っているときに気づかなかったもの…。
大切なもの…失って気づくということもあります…。
ゼロの視座から見たら、1や2や3は、すごくありがたいもので、ゼロに戻った想いであるなら、すべてがプラスとなります。
しかし、1万、10万、100万と、高い比率を得ていた場合、どんなに1万、2万の数字は小さいもので、その相対的な気持ちというところから言えば、その足る喜び、持っている喜びを感じられないのと同じように、愛する人と、どれほど愛していたか、気づけないことでもあります…。

そのような相対的なもの、また、本当はいらないもの、必要なかったもの。病んでいたもの。それにも気づかないということが、私たちには、あるのかもしれません…。
また、新たな人生が、新しい生き方が、美しい生き方が、人類の未来にあるのかもしれません…。
私たちはそれを見つけることが可能なのかも知れません…。
今日は、昔の自分が創った詩が、久々にそれを見つけて、嬉しいと言ってくれる方からのメッセージが入ったものですから、それを今聴きながら、その詩を見ながら、そんなことを感じました…。
今皆さまが、様々な苦しみの中におられるかもしれませんが、実はそれは、そのような様々なことに気づいたり、新たな道を見つけたりする、大事な時に皆さまがおられるのかもしれないなと、そんなふうに感じたので、お話しさせていただきました。

それではまた、お会いしましょう。
MARTHでした。

追伸です。
なぜ失うほどに愛は深まるのでしょうか…。
足るときは、知らなかった。君がいるときはわからなかった。
持っているときはわからなかった。失う時に、愛が深まる…。
これは、分離のアイディアから言えば、自我というものの野心や野望、念望が、破壊されたということに他なりません。
人間の、自我が持つあらゆる欲求。
念望、期待。所有欲。また、人間の自我の様々なそのような野心は、得ていたい。自我が、私が、私を守りたい。私、私、というような、そんな自我の欲求が、無理やり壊されたときに、万物の愛が出てきてしまうのではないかと、私は感じています…。
失うほどに美しく、失うほどに愛しいのはそのためだろうと想います…。
だから、自我が失うほどに、とつけた方が良いのかもしれません。
自我は失えば失うほど、自我が、私が消えれば消えるほど、私の物がなくなればなくなるほど、万物が出てくる、愛が出てくるからなのではないでしょうか…。
得ようとすればするほど、がむしゃらに戦えば戦うほど、愛しさや安らぎや、平和な気持ちや、至福を失ってしまいます…。
逆に、自我が野心を失えば失うほど、念望や期待を失えば失うほど、愛が出てくるのではないかと、私は、この分野でずっと探求をしてきた人間として、今そのように感じてなりません…。
それではまた、お会いしましょう。
MARTHでした。

MARTH

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