#88 「この世界の非現実性と、真の科学について、プラズマとシディの視点から垣間見える真実とは」(オープンセッション)
#88 「この世界の非現実性と、真の科学について、プラズマとシディの視点から垣間見える真実とは」(オープンセッション)
はい、今夜もMARTHのたわごと、トークセッションの時間がやってまいりました。
リリはもう、休んでいます。
早速、お便りの方からお読みしたいと思います。
Q:MARTHさん。私は最近プラズマのことや素粒子のこと。また、不死について大変興味を持ってしまっています。
ぜひ、そのことについてお話し頂けないでしょうか。
という、ご質問です。
素粒子のこと。素粒子は想念なのです。本当は。だから、素粒子は想念。え?素粒子って想念ということは、この世界は想念でできているのですか?そういうことです。
すべてのものは想念でできています。
ということです。たわごとですけれども…。
すべてのものは素粒子でできている。ということは想念の世界。物質映画の世界ということです。
それにぶち当たってしまった100年前の量子力学の方々は、人類になんてそれを言ったらいいのでしょうか。
君らは現実じゃないよ!って言えるのでしょうか。
そのようなところに入ってしまったのです。
科学が行き着いてしまったところは、非現実の世界だった。
物質映画の世界だった。ということだと言って良いのではないでしょうか。
その分子の世界は、そのように物質映画に見えないのです。
現実感を伴う…また、人類は言葉があって、一体のものに名称付けをしています。
また、決め事。作り事と言うのでしょうか、決め事をしています。
人類の活動というのは一万年、ずっと、わかっている範囲でも、名付けたり、意味付けたり、分離の中から分子創造をずっとしてきました。物質化現象です。
そのなかで、物質というのは想念でできていますので、信じれば信じるほど強まってゆくという、そういうことです。
それから、当然「不死」というのは、死なないという意味だと思うのです。当然、その「不死」ということが可能になるには、科学的には2つしかないのです。ひとつと言ってもいいです。
現実でない。もうひとつは、一体性でこの世界が一者である。だから、自我というのは妄想である。
要は、生まれてもいないし、生きてもいない。万物しかない。というこの2つのときに、不死というのが現実となるのです。
この世界が現実であれば必ず、かつ、部分であることが現実であるなら、自我が現実であるなら、必ずそこの部分は朽ちてしまいます。腐食酸化する星だから…。
腐食酸化が極端にない星では、寿命も全然長いでしょうし、また、不死という方向性に…でも、100億年不死であるかどうかは…。
でも、腐食酸化がないとか、いろんな条件があれば、そういうことも可能かもしれません。
どちらにしても、自我とか、部分ということから解放されないと、要は無我とか一体性に気づかないと、そこからは逃れることはできません。
逆に、逃れるともし言うならば、人間は非現実から逃れられないのです。これは科学です。要は、素粒子というのは、想念ですから。
想いというのか…では、誰の想いなのか、ということです。
部分、部分の、万物の部分が人間は想念体系で物質化現象が起こせたとして、そういう意味では、人間は、創造の一部を担っているとも言えます。
しかし、その本体、です。
自然界を生み出す力。これは、「創造の主体」と。「創造主」とみなさんが呼ばれていたり、「真我」また「一元」「一者」様々に言われている、「神」とも言います。
部分の神ではありません。一体の神です。この宇宙全体を創っている。これを想念で創っている。何者か。ということです。
で、想念でありますから、現実ではありません。物質映画です。
というときに初めて、不死が科学的に存在できる。
逆に、非現実性が真実の科学であるなら、そこから誰も逃れることができません。
そして、一体性というのは、愛ですね。だから、愛から逃れることはできない。誰もが愛の中にいる。一体の中にいる。
未知や神秘の中にいる。想念の世界、物質映画の世界の中にいる。永遠(とわ)にそこから逃れられない。
それが永遠性です。
そこから、いろんなことをお伝えし続けて来たわけです。
もう40年、そのようなことを発信し、音楽にし、詩にし、物語にし、お伝えしてきました。
プラズマというのは、想念的に言いますと、シディの世界のことです。
物質化現象。想念の世界なので、それを分子化する現象です。
ですから、3000度以上の溶岩とか、火山の爆発とか、原子核融合爆発とかも、プラズマを生み出します。
そのときには非現実が現れます。
そのとき、タイムスリップ、また、タイムトラベル、または壁抜け、テレポーテーション、反重力、様々な現実と我々が信じる世界では起こり得ない、非現実の世界で起こり得ることが起こる。
それがシディであり、プラズマです。
ですから、プラズマというのは素粒子である想念の世界から、分子の世界に現す物質化現象ができるようになる。
また、だから未知を可能にする。同じくシディも、人が深く五感を失い、深く真我にメディテーションされたときに、可能になる物質化現象です。
そのような意味で、プラズマとシディは共通点があります。
でも、どちらにしても、それはこの世界が現実でないという科学的事実にぶち当たってしまうというのが、量子力学の人たちの、100年前のボーム博士たちの苦しみであったと感じられます。
どう、人類に説明していいのか…この、分子に見える、ところが素粒子の目があったら、素粒子を見る目があったら全部つながっている。
分離していない。この世界も実は分離していない。すべてがつながっている。一体である。愛である、ということになります。
人類はそのような領域にこれから科学的に入ってゆかれると思います。
自分はそういうことをずっと言ってはきました。たわごとだと思っていただくしかないです。
ただ、未来の科学が、そちらに行くことを残念ながら自分は知っています。
しかし、それはたわごとで、いいのです。はい。
それでは、今日はこの辺にします!
また、お会いしましょう!
お相手はMARTHでした。
MARTH
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