Teacher Profile
MARTH プロフィール
ダニエル・コビアルカ他、ヒーリングアーティストのプロデューサーであり作曲家、実業家
“内側ではあらゆるものに属さず
何でもなく 誰でもなく
あらゆる国・民族・宗教・
政治・心理学・哲学にも属していない
私はあえて言うなら
永遠に森羅万象の一部にすぎない…”
Teacher Biography
上記のプロフィールの通り、MARTHはみずからの自己を拡大するようなこと、分離分析等を嫌います…。
そのため、彼がこれまでに歩んできた輝かしい経歴は、あまり語られることはありませんでした。
当バイオグラフィーは、そんなMARTHが残してきた数々の功績を新聞記事や雑誌、インターネット上から収集し、できるだけ正確にまとめたものをここにご紹介いたします。
1957年12月13日20時57分、法務省に勤める父のもと、東京都渋谷区広尾・日赤病院の分娩室にて生まれる。
幼稚園 南山幼稚園(麻布)
小学 3 年生まで 南山小学校
その後父が東京地検に出向したため、住まいが元麻布2丁目から白金台5丁目へ変わり、白金小学校(白金台)へ転校。
中学校 高松中学校(高輪/高松宮理事長)
高校 堀越学園芸能コースを経て、その後、明治大学付属中野高等学校夜間コースを卒業。
小学校の頃、劇団に所属し週刊少年ジャンプの荒野の少年イサムのイメージソング「イサムのうた/荒野の少年イサム」(クラウンレコード)を歌うことになったことをきっかけに、本格的に芸能活動を開始。北原じゅん氏の内弟子となり、歌手として活躍する。14才の頃、ミノルフォンレコード(のちの徳間音楽工業)よりデビュー。
1975年 18才の頃、解散したばかりのアイドルグループ「フレンズ」の後身「ニューフレンズ」のヴォーカリストとして抜擢され、ユタカプロダクションへ移籍。日劇ウエスタンカーニバルなどにてパフォーマンスを行う。しかし、同時期にTBS京塚昌子主演ドラマ 肝っ玉母さんシリーズ「道」の挿入歌「戦士の出発(歌:豊田清)」を作曲したことからアイドルよりも作曲家活動の方が本業となり、作曲家事務所を設立し、起業。CM・ドラマ・シンガーたちへの楽曲提供等、作詞・作曲家および歌手としての活動が本格化する。この当時は現在で言うシンガーソングライターがまだあまり一般的ではなく、JASRAC登録著作者としては当時最年少者であった。同年、その後1980年7月25日、22才の頃にアイドルデュオ「if(イフ)」を結成。トリオレコードよりリリースする。
アイドル、そして作曲家として活躍していたこの時期に、科学者の山下昭治博士(当時東京大学農学部)と出会う。当時、博士が発見したばかりのπウォーター、そして量子力学に強く関心を持ち、青年実業家として彼のスポンサーとなる。家庭教師ともなった山下博士は、πウォーターを指して、これは科学というより、量子物理学だとずっと唱えており、今日のMARTHのベースとなる量子力学への理解は、この頃からだった。
19才で大学生を中心とした学生企業を設立し、学生ツアー(バケーションシステム、ナッツベリー、オレンジペコ、レオ、エリー)などを通して数々の業績をあげ、日本一のヤングマーケット学生ツアーの担い手となった。
20代のMARTHは、後に三沢千代治著「情断大敵/KK ベストセラーズ」に『20代の社長が私の先生』と綴られたがごとく、時代の先端をゆく若き青年実業家としてその行動力を遺憾なく発揮することとなった。20才の頃、NSOジャパングループ設立。ディスコ、カフェバーの飲食業(クレオ、パラッツェ 1.2、沖縄クレオ、ヒッボフェロー、ゼナナ、ピクシス、インフィニティー他)、旅行代理店業、不動産業など7社の経営に着手し、ヒットを飛ばし、六本木のディスコブーム、カフェバーブームの火付け役となる。
1985年 与論島に総工費 58億円の「プリシアリゾートヨロン」を創設。施設内の水は、東京大学農学部の山下昭治博士を支援し、当時最先端テクノロジーであるπウォーターをふんだんに導入した。リゾートブームの先駆け として話題を集める。(同リゾートはその後 10年間日本のリゾートランキングのトップを走ることとなる。) また、与論島を舞台にした映画「星砂物語 スターダストストーリー」(東映)を企画制作する。(1987年4月公開)
しかし、同年 1985年8月12日かの日本航空123便墜落事故で、心から信頼していた山本幸男専務(当時ミサワホーム専務取締役)を亡くすこととなる。
ミサワグループ入りしたあと、それとは別の個人的なプロジェクトとして、数社の上場企業に資本参加してオーナーとなった。当然、このような動きは当時の業界を賑わしたが、MARTHは「これからは、愛と地球のために貢献になる企業やスタッフが沢山増えなくてはならない。上場企業1000社くらいは、地球のために、愛のある企業に変化しなくては、世界は良くならない」との言葉を発し、8社ほどの上場企業のオーナーとなった記録が残されている。そのあとすぐにその当時の経営陣と意見が合わず、すぐに返却したようだが、このように若き日のMARTHは実業的に世界を癒しの世界へ、愛(一体性)のある世界へ変えようとしていた様子が伺える。
1990年 33才 既存の社会システムの中で、様々な成功を収めたMARTHだったが、既存の社会システムの問題に直面し、真に愛のあるニュートラルな生き方を選択したいと既存の地位や名誉一切をすべて捨ててしまった。そして、本質的事業・本物であることが必要であるとして独立する。真のリゾートは人の心にあるとリゾート事業とセルフトレーニング事業を統合した、まったく新しいスタートをきる。
1995年 5月 ヒーリングアーティストとしてファーストアルバム「遥かなる道」をリリース。音楽業界に「癒し」や「ヒーリング」という言葉が存在しなかった当時、音楽業界の通例をすべて超え、全130タイトルに渡るアルバムを生みだした。
それらの珠玉の作品は、本当の癒しの音楽として高く評価され、「農林中央金庫」「にっぽんつけものがたり(NHK)」「生中継にっぽんの夜(NHK)」「人間ビジョンスペシャル-流氷-(テレビ朝日)」「感動エクスプレス(フジテレビ)」のテーマ曲として起用された他、「皇室アルバム」や「生き物地球紀行」「奇跡体験!アンビリバボー」等、本質的TV番組のBGMとして数千番組以上にわたり使用され、現在のヒーリングミュージックブームの先駆けとなる。そして、今もなお美しい自然界の風景や紀行もの、胸をうつドキュメンタリー番組などを彩り、人々のこころを潤し続けている。
また、2001年には 楽曲「空がすきです」をスカイマークエアラインズの機内BGMとして提供。
現在、音楽活動としては 2007年よりヒーリングアーティストMARTHとして、音楽配信がそれほどメジャーでない当時にして先駆けて世界配信をスタート。世界各国のブロガーから大きな反響を得る。当時の音楽ソーシャルネットワーキングサービスの最大手 Myspaceを通じてMARTHの音楽を知った、ニューエイジ・ミュージックの第一人者、ヴァイオリニストであるダニエル・コビアルカ氏は MARTH をマスターアーティストと称し、「ゴージャス!限りなく美しい!」と称賛の言葉を贈った。2008年 ダニエル・コビアルカ氏のプロデューサーとなり、東京国際フォーラムと国立京都国際会館にて来日コンサートを開催。7,000人のオーディエンスを動員した。以降、CDやDVD作品を次々と制作。レコーディング時には25年来、共に音楽を創り続けている、日本最高峰のスタジオミュージシャンである小池弘之氏や朝川朋之氏、キャサリン・キャッシュ氏が集い、楽曲を制作している。
2010年 作家として初の書籍「あらたなる世界」を出版。丸善・ジュンク堂・三省堂書店など、全国主要書店・レコード店にてコーナー展開。2011年米国ハワイ州にレコード会社を設立し、世界各国の大手デジタルディストリビューターから楽曲を世界配信。海外のドクターやセラピストから数多くの反響を得る。
2015年 18タイトルに渡る「HANA HAWAII HEALING」シリーズをハワイアン航空の機内 BGM として提供。
同年、フランク・シナトラの「Let me try again(作詞:ポール・アンカ/作曲:カラベリ)」の日本語詞を作詞。デモソングを聴いたポール・アンカ氏から絶賛され、当楽曲の日本語版歌詞として公式に認められる。
その後も作家として、アーティストとして多数の楽曲や書籍を制作・出版し、現在は全国主要書店、レコード店、オーガニックショップ、ホテル、旅館等でのコーナー展開を更に拡大している。
2018年11月11日 長らく表舞台への露出を避けていたMARTHだったが、30年来、彼を支える友であり、世界的映画音楽のアレンジャーであるDerek Nakamoto氏からのすすめをきっかけに、2019年11月11日チェコ・プラハの世界的音楽ホールであるドヴォルザークホールでの撮影・ホールレコーディングを皮切りに、You Tubeにて自身の動画を公開、世界配信することを決意する。
現在では、世界ユーザー数500万人を誇る世界最大の瞑想アプリ「Insight Timer」で2年以上、インストゥルメンタル部門のランキングトップを維持し、また北欧スウェーデン発、音楽配信サービスSpotifyでも、クラシカルジャンルのアーティストとして幾度も取り上げられ、そして、現在100社におよぶ癒し・ヒーリングを専門ジャンルとしたインターネットラジオが、MARTHの音楽を配信する等々、世界規模での活動を続けている。
その他音楽活動としては、ヒーリングアーティストの育成および音楽プロデュースを手がける中で、海外のトップアーティストとのコラボレーションプロデュース、海外のアーティストへの楽曲提供、および映画のタイアップの依頼などを受け、多方面にわたり活躍中。
その一方で、癒しの専門家、実業家としての活動も並行し、ヒーリングファシリティーの専門企業を30年前に立ち上げ、世界初の電気式岩盤浴機器を発明。施工の難しさやレジオネラ菌の問題が懸念された従来の岩盤浴システムを覆す手軽さと安全性、衛生面、10年使っても故障しない堅牢さが高く評価され、日本全国のホテルや旅館、温浴施設、スポーツクラブに導入される。
その後、信楽焼の本場窯元と史上初の薄型モダンデザイン信楽焼陶器浴槽を開発し、全国有名旅館やホテルに導入され、客室露天のブーム、癒しの宿ブームを強力に後押しする。また、マイナスイオンやホルミシス、テラヘルツ、遠赤外線、近赤外線など様々な薬石を組み合わせた「ソフト岩盤」を発明。全国の薬局やクリニックなど1000店舗に渡る医療関係のディーラーが販売する。
現在 ヒーリングファシリティーでのディーラーや顧客においては先述した医療関係者をはじめ、建築事務所・ハウジングメーカー・住設機器メーカー(丹下都市建築設計・石井建築事務所・鹿島建設・株式会社J.フロント建装・京急建設株式会社・大成建設・JTB 商事・三菱地所・住友林業・積水ハウス株式会社・ミサワホーム株式会社・大和ハウス工業株式会社・INAX・TOTO など多数)ホテル・旅館(かんぽの宿(日本郵政株式会社)・パークホテル東京・ウェスティンホテル淡路等)、その数は 5千社以上に登る。その癒しの効果は予想をはるかに超え、心と身体の癒しのエキスパートとしての実績を重ねた。
2018年、自身の最後の仕事、リゾートの創設者として最後に手がける幼少時からの、人生かけた夢であった、美しきハートを持った地球のモデルルームリゾートとして「地上最後の楽園 Lastra Mu」プロジェクトを開始。前述の屋久島のリゾートホテルの地をLastraの地に定め、建築をスタート。現在那須高原、河口湖、奥琵琶湖の竹生、屋久島に建設をすすめている。そしてイタリアのSESSA社のディーラーともなり、世界初のヒーリングクルーザーをプロデュースし、現在にいたる。