古代からの科学的理解、和するという一体性の価値観とは

古代からの科学的理解、和するという一体性の価値観とは

はい、今夜もオープンなトークセッションの時間となりました。
今日はリリが一緒にいますので、もしかしたらリリが音を出すかもしれませんが、先にお伝えしておきます。
今は静かに寝ている様子です。

それではお便りの方からお読みします。
お便り、じゃないな。メッセージ。メールですね。
Q:MARTHさんのお話しを聞いていて、古代からずっと日本に伝わっている「和する」ということについて、深く最近考えるようになりました。
ムー、縄文を経て、また、外から帰ってきた様々な方々や、イザヤさんのこと。みんなが一体性について気づいていた。そのようなことをMARTHさんがおっしゃりたいのだなということを、ひしひしと感じています。

すごくそのことに興味を持っています。ぜひ、お話しください。

という、ご質問をいただきました。

おっしゃられるとおりです。若き日から、そのヒーリング音楽みたいなのをはじめまして、そしてそういうコンサートには、沢山のそういうことが、精神世界というのでしょうか。またセミナーの世界とか、本質的なそういう世界の方が沢山こられるんですね。そのコンサートに。まぁライブですね。小さなライブなんですけど、毎週やっていました。

そこに、大変著名になられた方々が来られておられて、いろんな話を若き日に聞きました。
また、量子力学的なことを学んでいる先生と一緒にリゾートを創ったりもしましたので、そういう意味では若き日からいろんな情報に触れながら…

自分の、これは個人的な見解なのですが、そういう古代文明。ムーと呼ばれていたかどうかは別として、超古代文明は量子力学的な素晴らしく、なんというのでしょうか、自然界と調和した、分子レベルでない、素粒子以上のレベルを理解した科学力を持った文明があったことは間違いないなと自分は思っています。

そして、それはヴェーダにも影響していますし、様々な日本の古代文献にも現れていて、世界中のその後有名となった賢者たち、目の開いた方たち、世界中のですね。みんなが和することを学びに日本に来ていたことが、垣間見られます。

そして、日本という名前ではなかったと思うのですが、多分ムーという名前でもなかったと思うのですが、ま、そのように今は呼ばれている、縄文とか呼ばれている、未知なる文明ですね。

それが大変レベルが高かった。この宇宙が一体で、ひとつで、分離したものを嫌う。という科学力は素粒子レベル、電子レベル。
また、フォトンレベルでの量子レベルの解明が非常に深かったと思われます。

当然天文学を含めたあらゆることが大変進んでいたと思います。

そしてそれを世界中のそういう精神世界的な賢者というか、レベルの高い方たちが学びに来ていたという伝承というか文献が残っています。

そういうのにも若き日いろいろと現物というのでしょうか、沢山見ました。

で、またヴェーダ、シディのことも体験沢山しましたので、やはりその集合意識が分離、戦いになっていると、この未知や神秘、現実感が薄いという意味で、この未知の、神秘のソクラテス的な価値観というのが薄れてしまいますね。

みんなが現実感を持ち、分離感を持ってしまい。まぁ分離感イコール現実感になるわけですが、やはりそうなると、死の問題や、現実ということになりますから、当然死というもの、分子の終わりというものの問題を見ることになります。

しかし、古代の人々は素粒子レベルを見ていたので、電子レベルを見ていたので、生命の価値観や考えも、遥かに進んでいる。
今の科学力よりも。

今の科学力でいうなら量子力学的なものだと思うのですが、要は創造の主体のようなものの、この夢の世界というのでしょうか、物質映画であると。
想念の映画であるという捉え方を古代はしていたようで

逆に、私たち人類はその子としての、その部分としての創造の範囲を任されている範囲がある。
で、それがみんな分離と戦いと競争、比較となりますと、非常にその素粒子的にはまた創造の一体としては、嫌なものとして反応します。

それは身体のまるで臓器同士が戦っているとか、また細胞が自我を持って他の細胞と競争したり、ケンカしたり、騙したり、そういう状態になっているということです。

ですから、本人は、身体の持ち主は、また創造の主体は即それを嫌う。嫌がる。メッセージする。白血球が来る。T型が来る。いろんなものがその人の運命を左右する。メッセージしてくる。バチ的なものを当ててくるということが、科学的な事実として理解されていたようなんですね。

ですから今、現代の量子力学の方たちも、そのネガティブな分離の価値観をどれほど電子が嫌うのか、フォトンが嫌うのか、電子がきれいに回らなくなるのか。要は円を描く、これはπというようにも表現する科学者の人たちがいますが

電子の軌道が乱れる。要はエントロピーが増大する。そういったことを、要は一体の世界なので、自然と身体が、身体の中で自我が生まれたり、部分の細胞が自我化して他の細胞と戦って、他だと思ったらば、当然困りますね。

宇宙も同じようになっているということを、科学の方たちが解明される日が来るのではないかと私は個人的には思っています。

それから、聖書的なものに対してどう思っているのか。というお話があったのですが、その、昨日もお話したんですけれども、その古代のユダヤの方たちというのはムーにもつながる方たちだと私は認識しています。

縄文と言ってもいいですが、その方たちの基本は、やっぱり一体性、無我性ですね。

で、その身体の細胞さんたちといっしょで、それぞれがそれぞれの役目は違っていても一体であるという、そういう価値観の中で機能している。

そして、なんというのでしょうか、そういう価値観を持った彼らが生み出したものというのは、僕も詳しいわけじゃないですが、いくつか…たとえばヨナの物語も、敵を愛せと。敵に知らせに行きなさいと言う神が、または創造の主体が言うと。

それに対して、預言者ヨナは、未来を見通せていたために、先輩からも聞いていて、その人間たちに滅ぼされるという予言を知っていた。だから奴らを助けたくないんだ。敵なんだ!ということで、その役をやりたくないと言った物語ですね。

まぁ、聖書全部を知っているわけじゃなくて、本当に一部分そういうのを知っているだけなんですが、やはり敵対心、競争心、分離感。それが、また恐れですね。
これを問題にする書物だと。

そして、その古代ユダヤの人々は和を持って尊しとする。愛を持って、一体を持って、成功の法則とし、要は自我の拡大、高揚、保全というものを嫌う。という宇宙の法則に合っている。

だから、ムーと我々が呼ぶ文明。古代の、非常に善良な高度な文明と同じ価値観を持っているふうには、捉えています。個人的には。

で、その一体性ということからそれたらどうなるのかという物語がいっぱい書かれているんだなというふうに、自分はその聖書という書物に関しては、そう捉えています。

そこから、様々な宗教のグループが生まれているわけですけども、やはり一番大事なことは他を愛する。他の団体を愛する。他のグループを愛する。他のグループを尊ぶ。

戦いやケンカ、争いはしないということが基本なのではないか。

その書物(聖書)のですね。だから、騙すとか、やっつけるとか、滅ぼすとか、そういうことを嫌う。宇宙は、みなが力を合わせて愛で生きる。みなが、他のものほど大切にし、傷つけられても傷つけない。

要は、競争したり、戦ったりしないから、うまくいく。だから繁栄する。だから、成功する。
真に繁栄し、豊かになる。真に素晴らしい…なんというかな。子孫繁栄っていうのかな。素晴らしいことになる

だから、自我を拡大して、猜疑心で恨んだり、憎んだり、そういうことをするなよ!という、物語なのではないか。

それは非常に素粒子レベルに合っていて、創造の主体の一者の夢であるこの世界。という捉え方からしたら、ものすごく大切なことの書物だなと、自分は捉えています。

で、我々日本の民とヤマトの民は、そこから来た民なので、基本が和すること。だから分離を嫌う国民性があると思います。古代から。
一体である、1つである。そしてみなそれぞれが能力がある。みんなが違う。そしてグループごとに違う力を持つし、能力も持ち、みなで力を合わせて、万物が望む、神が望む、創造の主体が望む素晴らしい世界をみなで力を合わせて創ってゆく。互いのグループを愛し、尊敬し、自らのグループ、自らの家族以上に他の人々を大切にするゆえに、自らが幸せになれる。

というような基本が、この国の持つ宝だと思います。
その宝が失われてしまう。というのは悲しいことだし、この和することは世界の人が知りたいと思っていることであるでしょうし、

じゃあ何が日本の宝かといえば、この世界は未知で神秘であり、一体である。一者の夢であるという文化が多分、ユダヤ…古代ユダヤの方たちが日本に来て、イザヤさんを含めて、そのような素晴らしい国を創りたいと願った。しかし、十支族の方々は、捕囚によって苦しんでから来られています。

ですから、いろんな苦しみや争いや戦いの価値観の中で、未知や神秘、または一体であるというものが減ってゆくと、やはりそこにメッセージや苦しみが、また問題やトラブルが生まれてくるんではないかなと、自分は感じています。

ですから、世界が本当に素晴らしく繁栄し、皆さんが成功したり、繁栄したりするには、一体性と未知や神秘性によっての、死を超えるというのでしょうか。永遠性の中に入る。
要は、素粒子の世界は永遠なので。要は分子の朽ちる世界をこえて、真実の世界の中に目覚める時代が来たのではないかというふうに捉えて、私はいます。

そのへんは、MARTHのたわごとということで、思っていただいたらいいと思います。

それでは、今日はこの辺にいたします。
それではおやすみなさい。

追伸です。
ひとつ言い忘れたことというか、お伝えしたいことがありました。
よく、罪とか罰とか、いろんなことを、罪というのは聖書の言葉なのかもしれませんが、それがあるとすれば分離。

また未知や神秘の中にいるのに、要は分子レベル的な価値観で、永遠性やとわや、美しさ、一体性を失うこと。

要は他と戦ったり、争ったり、そのようにできてない世界。
要は素粒子というか、分子でない世界は一体で、未知で神秘なんですね。
永遠にとわに続く、不可思議な一体の一者なる世界。想念の世界と捉えたら、そこをそうじゃないと思うことが罪。要は科学的事実じゃない、分離して戦い、恨んだり、憎んだり、殺したり、騙したり、そういうことを戒めることこそが、その古代ユダヤの教え。要はムーの教え。縄文の教えだったのではないかと、そのことを古代の、世界中の賢者の方々が学びに来られていたのではないか。

そのことを伝えることが、そのことを皆さんにお伝えすることこそが、ヤマトの民の、また古代ユダヤの民の役目で、また縄文の、そのムーの科学的理解を継ぐものの役目なのではないかなというふうに、MARTHはたわごととして、そう想います。

それでは、またお会いしましょう。

MARTH

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