#108 身体に例えて一体性を説いてくださると、非常にわかりやすかったです。ぜひ、それをもっとお願いいたします(オープンセッションのみ)

#108 身体に例えて一体性を説いてくださると、非常にわかりやすかったです。ぜひ、それをもっとお願いいたします(オープンセッションのみ)

はい、夜の時間帯のたわごとのお時間です。
今日の昼間、ティナの物語についてお話ししました。

早速、いろんな関係者の方たちを含めて、いろんなスクールの方たちにお届けしたところ、いろんなお話しがありました。

急きょ、それにまたお答えしようと思って、今、リリが寝ましたので…。ベッドにね、リリは行きました。

で、時間が少しできたので、お伝えします!

まず、今日のそのことについて、
「Q:身体に例えて一体性を説いてくださると、非常にわかりやすかったです。ぜひ、それをもっとお願いいたします」
ということです。はい。
身体に例えて…ということは、細胞というのが自我なのです。
細胞意識、自我意識です。身体に例えると。
要は、身体は全体として一体として、例えば僕の身体だったら、MARTHの一部ですね。あなたの一部が細胞なのだけど、その細胞が自分なんだ。一体物、あなたの一部ではなくて独立した存在であるともし勘違いというか、そう思い込んでしまう、これを“分離”と僕が呼んでいる意識ですね。分離意識、自我意識、分かたれの意識です。

“分かたれ”=穢れ。身体で言うとガンみたいな形ですね。
もし、細胞が自分だということになって、では、自分はどこに所属しているのだ。自分は肺の細胞だ。肺軍だ。肺国だ。肺団体だ。肺グループだ、となりますと、他の人と戦う、腎臓や、肝臓とか、膵臓と戦うぞ!となった場合、「ナントカ軍」と、同じ肺の中でもこの部分と戦うぞとか、要は競争や比較が生まれます。

そして、神意識とか万物意識、真我意識、または無我意識、真の自己と呼ばれているものは、細胞意識ではないということなのです。
要は、その僕の身体で言うなら、自分はMARTHの一部なんだと。
天の一部とか、それを人間で言えば神の一部、真我の一部、森羅万象の一部だという理解です。

で、自我意識というのは必ず細胞分裂していってしまえば外に吐き出されてしまう。これは“死”ですね。細胞にとっては。

ところが、細胞意識ではなく、万物意識、本体の意識であると、その本体が永遠の素粒子だった場合は、永遠なのです。

自分は存在本体の一部であるという理解が真実、真の自己の理解です。

ですから、他の、肝臓の細胞と戦っていたら、肝臓なんかは悪いやつだ、ガンになっているからって肝臓を取ってしまうと、自分も影響を受けるわけです。

要は、肝臓さんが頑張ってくれて初めて、自分も生きれる。
心臓さんが頑張ってくれて、心臓の細胞さんが、身体のいろんな細胞さんが元気だから、自分が元気なのです。

そうなりますと、万物全体、人間だけでなく森羅万象全体が機能して、初めて自分があるのだ。自分が健康でいられるのだ、ということを、人類は今知らない。要は分離社会、エゴ社会です。

ですから、他を滅ぼしても、他をやっつけても、他を殺しても、他を騙しても大丈夫だと思っているのです。実はそれは、自分が台無しになることなのです。

それが、万物の意識です。真の自己、真の自分です。

で、細胞を自分だとしてしまうと、では、仲間は、味方は、というようになってしまって、敵対するということで苦しむわけです。
メッセージが来るし、自分でもメッセージを出すし…。

ですから、自分が勝つとか、例えばですよ、小さいときに細胞さんが生まれて、自分がダメだとか、いろんなことを言われたり、そのような事件が起きたりして、自分がダメだ、とか、非常に怖いとか、つらい、という思いをしたら、どうでしょう。

そうしたら、その部分を良くしないと、と思いませんか?
また、周りの人が「お前ダメなんだ!良くなるんだ!」だから劣等して…。
劣等する細胞さんが、優越したい細胞さんなのです。
勝ちたい、偉くなりたい、すごくなりたい、というのは、自分がうまくいかない細胞なんじゃないか、という悲しみやつらさが小さいときにあったから、背伸びをしなきゃいけないのです。

坂道を登らなきゃいけない、荷物を背負うのです。
そのような意味において、良くならなきゃいけないって、信じたということです。その悲しみで、他を滅ぼそう、他に勝とう、偉くなるんだ、すごくなるんだ、地位だ、名誉だ!というようになるのです。

そのような傷が薄かった場合は、細胞さんは万物として生きるのです。森羅万象として、すべての一部として。

それは社会の中の一部ではないです。
国とか民族とか、団体とかグループに所属するのではなく、万物、森羅万象としての一部です。
それが愛であり、本質、本当の自己、真の自己だというように、秘境等では言われていることです。

ですから、何もそのような自我意識、要は細胞意識がなければ、何もなろうとしないのです。部分が良くなる必要がないから、真に良い、真にいい、真に美しいということになるわけです。
運もいい、真に成功する、真に素晴らしい愛の人生となる。
これを、人類は取り戻す必要がある。楽園に戻る必要があると、自分はたわごとですが、伝えています。

そして、もうひとつの質問なのですが、
「Q:存在しない、ないものを良くしようとすればするほど、悪化するとMARTHさんは伝え続けておられます。そこをより深くお伝えください」
というご質問が来ています。

そうですね、今ちょっとお話ししました、“存在しない”。要は、細胞というのは実は存在していないのです。細胞じゃないのです。名付けなければこれは細胞でも、腎臓でもないのです。
では、何なのか、といったらあなた自身なのです、あなたの細胞は。
要は、人間は万物そのものなのです。森羅万象の一部なのです。

ですから、自我とか自分というのは存在していないのです。
五感とか、知識の果実、名称付け、“分ける”ということです。
名付ける、分け、名付ける、ということがなければ、万物の破片、万物の一部です。

その万物の一部の自我などないものを良くしようとすればするほど悪化する。当然、突起する。

そして、存在しないものを、愛の中で、無我のままで、自我の終焉の中で生きれば悪化しないのです。

良くなろう、すごくなろうとしなければ、良くなるのです。
万物として守られるのです。

「守るんだ!勝つんだ!偉くなるんだ!すごくならないと!オレはダメだから!」って言う必要はないのです。

それを「私などいなかった、存在していなかった」と解除の仕方を前にもお伝えしたと思うのです。
誰が不安なの?誰が怒っているの?誰が偉くなりたいの?誰がすごくなりたいの?必ず答えは「私・自分」ですね。
それが存在しないのです。

そのことに気づくと、本来の分かたれが消え、その人の本当の存在、真の自己に還ります。万物自己。逆に言うと、肉体脳でない、真の自分に戻るわけです。

それが、愛です。
それが、愛しさであり、真の繁栄であり、真の美しさであり、何にもなろうとしない、いないものは何にもなれないのです。
いると信じたらなにかになれると思うし、勝つとか、比較とか、ケンカとか、争いとかになるわけです。

でも、争っているのは自分の中身です。自分と一体の肝臓さんです。心臓さんです。膵臓さん、それを滅ぼしてしまったら、自分も滅びます。

で、最後の質問。
「Q:『ラ・ムーの悲しみ』について、また、ムーの人々のつらさにも触れて、お話しいただけないでしょうか?」

先程、そのことをちょっと言っちゃったからですね…。

ラ・ムーとか、日本で言うと国常立尊さんとか、イエスさんとか、OSHOさん、クリシュナムルティさん、いろんな人がいますね。
また、ソクラテスさん、老子さん。みんな、社会から嫌がられたり、やっつけられたり、イエスさんはもう、つばをかけられ、殴られ、ムチ打たれ、それでもなお、一体性・愛を説きました。

あなたたちは、身体で言えば身体本体であり、部分の細胞ではないということです。
永遠の生がある。でも、それってどうでしょうか。やはり嫌われないでしょうか。
僕はすごく嫌われます。スタッフの人にも、その一体性を言うと、みんな聞かなかったりします。

何故かというと、みんな自分がいて、小さいときにその自分がダメだと信じていて、良くしたいのです。勝ちたい、すごくなりたい、邪魔するな!
すると、国常立尊さん、あいつうるさいから、あいつ本当のことをいうから閉じ込めちゃえ、封印しちゃえ!うるさいんだよ!
今、もう一ラウンド行くんだ。もう一ゲーム行くんだ。もう一回勝ちたいんだ!オレはすごいと見せたいんだ!オレをバカにするやつを許せないんだ!

昔、後輩の経営者の人が、僕のライブに来られたりしたときに、小さいときに村八分になって、お父さんが破産したか何かで…すごく悔しかった、つらかった、みんなに石を投げられて、故郷を去ったんだって…泣きながらおっしゃられて…。
だから、偉くなりたいんです、と。一度でいいから、MARTHさんの言うことはわかるけど、自分は勝ちたいんだ!思い知らせたいんだ!とおっしゃってて。

今も経営者として大変成功されていると思うのですけども…。つらいんだと、悔しかったんだ!憎いんだ!オレを馬鹿にしたやつ!って、泣いていました。

僕は何も言えなくなってしまいました。そうか…そんなにつらいんだ…好きにやればいい、思いきりやればいいって…。
でも、MARTHさんの言っていることはわかるんだ!だけど、オレは勝ちたいんだよ!悔しいんだよ!って、おっしゃっていた。

これが世界だと思うのです。「馬鹿にされた!やっつけられた!殺されそうなんだ!だから勝つしかないんだ!偉くなるしかないんだ!」って。それで、闇と化してしまう…そのような同胞たちの悲しみ。これを解決してゆく必要があります。人類には。そうでないと、真の平和や愛は来ないでしょう…。

要は、子どものときからみなが一体性というか愛、森羅万象であること、真我であること、存在そのものであること、神の一部であること、愛であることを学べる必要があります。

ですから、何かになる必要がないということ。いや、何かになれない。最初から生まれながらに万物の一部で、永遠に万物の一部、永遠に神の一部で、永遠に愛の一部で、永遠に美しい、存在そのものだ。何にもなれない…。

誰にも勝つことができないし、永遠に誰にも負けることはない…。
永遠に神の子にすぎない…ということです。

それを伝えたラ・ムーが、長が、リーダーが、神官というか、イザヤさんのような、イエスさんのようなリーダーです。
ラ・ムーが伝えたにも関わらず、ムーの人々はそれを聞かなかった。「また言ってるよ」、「煙たいんだよ、うるさいな。今、勝ちたいんだ!偉くなりたいんだ!すごくなりたいんだ!」
ムーの民衆の方々が、そんなふうにして滅びた…。

で、その滅びたあと、その、その“想い”ですね。“間違っていた”って…。ああ、滅びちゃったって…。「できれば、ラ・ムーの言うことを聞いてやればよかったな…」、「あいつは正しいことを言ってたよな…」その悲しみ、そのムーの人たちの切なさ。悔いる想い。自らをとがめる想い。償いたい想いです。
それが岩に刻まれている、という話をティナがキャッチした、という話をさっきしたのです。

それが物語の大きな展開に。そのムーの人たちの悔いる、償いたい、愛しい、悲しい想いをプラズマで増幅するというティナの、
世界に愛を取り戻すひとつの法だったのでしょう。

そういったことで、世界は愛でできている。世界はあらゆるものの万物は、一体の愛でできている。みんなが力を合わせて、みんなが健康で、あらゆる、生命だけじゃなく、鉱物さんもみなが幸せになったときに、その本体の身体であった神や創造の主体が幸せになる。それを願っている。その子どもたちである私たちも、それを願っている…。

ではまた、お会いしましょう。
お相手は、たわごとMARTHでした…。

MARTH

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