What is the difference between a school and a general lecture?

スクールと一般のレクチャーとの違いは、主体を変えることにあると感じます。外側(客体)をいじるのではなく、主体を変化させてゆくということに集中してゆくことが本当は真の学びであることでしょう…。

人を変える、世の中を変える、状況を変える、自我など無いと気づくのではなく(一体に気づく)自我にとっていやなことがないようにする、そのような自分という主体から見た外側を変えるのではなく、そう感じている、分離を信じた自らを変えることを学ぶことは、素晴らしき成長を可能にし、何より美しき真の行為であるでしょう。

長きに渡り、この争いの社会となった苦しみの中で、誰もが自らの傷、また、分離感から来る思い込み、信念、観念、時代、育った環境といった主体側の分離感(観念)を変化させることによって、外側に変化がないにも関わらず、自我の念望からの自由を得、変化を促し、驚くような至福を伴うトランスフォームが起き、やすらぎや輝き、真の繁栄、素晴らしき人生、真の運のよさ、そのようなものを取り戻してゆく、本来の質に帰ってゆくものです。

たとえば、この世界をこの世だと思う、現実だと思っている、本当か?
分離した自分が在ると思っている、一体なるなにかでなく、自我が本当に存在し、生きていると思っている、それは事実なのか。
木だとか、山だと名称付けたものを、その名称であると思っているのだが…、自我の安定、安全を、(必死に存在しない自我を)守ろうと信じて行為している、名前を信じている、名称が事実だと思っている、分離を信じている、ひとつなる世界で、勝つことが良いと習った などなど、そのように自らに問う過程において気づきを深めます…。

分離の価値観の中の人間界をどれぐらい信じているのか…。悟りとは、本当は人間が創った分離したものすべてが空っぽになることです…。人間が創った分かたれ感は、ただの作り事に過ぎず、真実ではないのです。

この世界も永遠にとわにわかるものではなく、分けるものでない、というところから見てみる、また、自分がどれぐらい観念や信念から来る念望や期待、野心に囚われているかに気づくことは、あらゆる人が本来すでに持っていた素晴らしい至福を取り戻す、大きな変化を自らに与えます…。 そして、それら誤った期待を外してゆく過程…
その妄想に目覚めてゆく、それが、真の心のトレーニング、スクーリングであるでしょう。 これからみなさんと共に、覚醒、目覚めと古代から呼ばれてきた、自我の野心からの解放、自らを扱える旅に…。
そして、意識の開花、真の意識、真のリアリティへの気づきを共に学ぶことができたなら幸いです…。

MARTH