私という実は妄想の問題について

私という実は妄想の問題について

はい、今日もオープンなトークセッション、ご質問の方から、お読みしたいと思います。
Q:私は高校、歴史の教師をしております。
MARTHさんの話をお聞きしていると、とても安らぎます。
しかし、よくよく聞いていると、この世界のあらゆる問題が、分離の、自我の問題ではないのか。そのような気がしてきます。
人間のあらゆる苦しみが、すべて分離から来る自我の問題なのではないかというふうに、最近思えてきました。
ありとあらゆる、MARTHさんのYouTube、MARTH TVを私は見ています。ぜひ、そこのところをストレートにお答えいただけないでしょうか。

という、ご質問をいただきました。
先生がおっしゃるとおりです。
おっしゃるとおり、すべては分離、自我の問題だと私は思います。
何故かというと、人の苦しみや悩みはすべて“私が”という、私がつらい、私が頭にきた、私が悲しい、私が悔しい。すべて自我の問題から来るから、です。

そこから、人々はみな、そのような文明の中に生まれるために、誰のせいとかではなくて、みんなが分離。そこからの競争や比較。劣等や優越。悔しさや憎しみ。

そのような、騙したり、騙されたり、裏切られたり、裏切ったり。そういう自我のあらゆる苦しみの中で、人は悲しみに暮れているのではないかと、私は感じます。

ですから、古代から、非常に意識の高い方たち、賢者たちは、無我であることをすすめています。
無我というのは、一体だ、ひとつだという、素粒子レベルの、原子レベルの話に共通します。

私たちは、分子レベルで物を見ますと、分かたれているように見えますし、五感もあり、また、いつも言うように名称づけがあることで分離して物を捉える傾向にあります。

そこから、私たちの文化、文明、社会自体が、自我をベースにできています。

このところを変えなかったら、千年王国とか、様々なこと言われているけど、ニューエイジではそういうことが言われているけど、私は叶わないのではないかと思います。

自我という妄想を持っていて、なにか14万何千人が、とか言いますが、争いとケンカと分離、自我を持っている14万4千人がなぜ楽園が創れるのか、私にはそこがわからないのです。

この地上に楽園ができるとしたら、愛が生まれるとしたら、平和が生まれるとしたら、自我の終焉がそこの前に必要で、分離の終焉が、必ず前もって必要で、そのような社会がいるのではないかと、疑問に思ってしまうのです。先生、どうでしょう。

世界中の子どもたちが一体を学べて、無我を学べて、それなくして時間、次元上昇とか、ニューエイジの方々が言うようなアセンションとか、あるのでしょうか。私にはわかりません。

私は、無我がない限り、一体性がない限り、自我の終焉、分離の終焉がない限り、人類に平和が来るとは思えないのです。

なぜなら、自我はいつも悩み、勝とうとし、負けじ、いや、自我はやられてたまるか。負けてたまるか。怖い、つらい、悲しい、私が、私が、私が、となっているわけです。

その中で、それを信じていて、苦しんでいる。
ああ、私などなかった。一体だった。存在していなかった。存在していないものを、ああ、存在していないと気づくことがなくて、平和や愛が、そのような社会が本当に来るのでしょうか、

私はそう想うのです。
平和、または愛の世界。素晴らしい世界。繁栄し、豊かで、美しい世界を創るためには、まず初めに、みなが一体の世界である。素粒子レベルで、永遠に未知で神秘で、一体なのだということを、まずはベースに世の中を創り、社会を創り、そのとき初めて、平和や愛の実践ができるのではないでしょうか。

みなが美しい社会を創れるのではないでしょうか。
みなが分離を信じ、ケンカや闘争、比較や分離、分裂。差別や、様々な苦しみ。
様々な、そして攻撃。劣等。嫉妬、妬み。という中で、どんなにごまかしても、素晴らしい世界ができるとは思えないし、それは歴史が、先生、物語っているのではないでしょうか。

あらゆる人たちが滅びてしまうのは、その人の素粒子が、その人の万物が、その人の愛が、その人の神聖さが、その人の神が、自らを目覚めさせようとするのではないでしょうか。

もしその人が、分離を信じていたら、自我を信じていたら、その苦しみから野心や念望、期待を持っていたら、素粒子たちはびっくりして、その人の愛や本質はびっくりして、その人を止めなければ、その人を気づかせなければと、あらゆるトラブルや問題を持って、その人に気づいてもらおうとするのではないでしょうか。

そのことを、古代の人は「バチ」と呼んだかもしれません。
そのことを、私は伝えてきただけなのです。

まずは、みんなで、人類がみんなで、平和な愛のある素晴らしい世界を創るために、みんなで、まず一体の価値観を取り戻して、無我な価値観、ひとつである価値観を取り戻して、私の苦しみ、念望、野望、希望、そこが、実は存在しないんだと。私など存在しなかったのだと。一体なのだと。

細胞が、オレは!どこどこの細胞だ!オレは何々だ!という妄想を晴らすところから、はじめませんか?
そのとき人類は、必ず愛のある平和な世界を創れると想うのです。

まずその教育が世界中でなされて、初めて、一体であることをみなが知って。無我であること、自我が存在しないことを知ったら、トラブルやメッセージ、ありとありとあらゆる問題は消えると思うのです。

それを研究し、調べ、試し、実験することは、何よりも大事なことだし、それを調べてくださるように、世界中の方々にお願いしたいのです。

必ずそのときには、皆さんが望むような素晴らしい世界がきっと来ると想うのです。

人類はまだそれを試したことがありません。無我な世界。一体の世界。愛の世界のために、神々は、いや、天が

そのような世界を創っているのです。きっとそうです。
そのような人々のために、この世界ができているのだとするなら、そのように私たちが試みるときに、素晴らしいことが起こるのではないかと想えてなりません。

大変生意気なことを言いました。
私がそう思うだけですので、皆さん忘れてください。

それではまた、お会いしましょう。

MARTH

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