なぜ、一体性(愛)をなくしてしまったことが最大の悲しみであるのか…
なぜ、一体性(愛)をなくしてしまったことが最大の悲しみであるのか…
はい、今夜も、トークセッションの時間がやってまいりました…。
MARTHのたわごとのお時間です。
まず、ご質問からお読みします。
Q:MARTHさんは、愛だけは決して捨ててはならないというようなことを伝えているように感じます。
その深き意図を、お伝え願えないでしょうか…。
という、大変聡明なご質問をいただきました…。
そうですね。傷つけられても決して傷つけてはならない。
これは一体の世界、科学的に一体の世界では、結局一体を持ってないものが罰せられる。一体を持ってないものが、うまくいかない。繁栄できない。成功できないという、宇宙の法則に基づいているわけです。
まぁ、自分の両親は、バカにされても、傷つけられても、やっつけられても、全然構わないのだと。
ただそれを行為するよう人間になっては決してならないということで、教育されたり、ビンタされたりもしました。
まぁ、そういう教育の元だったために、余計強くそう思うのだと思うのですが、勝つな、偉くなるな、すごくなるな、過信するな。
これは聖書というか、うちの一族というのは、淡路島の神代というところの寺なのですが、あと、古代というか昔はそういう八幡神社みたいなのも一緒だったみたいなんですね。
それが長く続いていて、空海が開いた寺なのですが、基本的にはだから景教ですよね。
だから、キリスト教というのですか、古代キリスト教ですね。
古代の。イエスが生きていた頃のですね。
それが日本に渡ってきたものだと思うんですけど
要は、自己拡大をするなと。要は自我を強めるな。ある意味じゃ、無我ということですね。
私などいない。存在しない。生きてもいない。生まれてもいない。
じゃあ何がいるのか。それは万物がいるのだと。
神の現れ、神のしもべ、いや、公務員。
すべての人は万物の公務員、万物の子にすぎない。というような価値観ですね。
それだけは失ってはいけない。それが科学的事実だから。
ということだと思うんですね。
簡単に言いますと、手と、右手と左手がケンカしているとか、右手だけが左手を恨むとか、または、肺と腎臓がケンカしていると。
腎臓が恨むと。
で、これ、恨むほうが身体だったらガン細胞ですよね。だって一体物だから。
だから、自分から見たらケンカをやめてほしい。だから白血球やT型とかいろんなものがその攻撃をしてる。恨むとか憎むとか、攻撃するとか、そういうのを戒めに行くわけですよね。
一体なんだよって。
それがバチとか、いろんなことでね。
だから他だと思って滅ぼしたり、他だと思って、またそういうことを教える人は、やっぱり同じことですね。
まぁ、罰せられるというか、自らを罰するというか、やっぱり一体のものを、一体でないと捉えたり、一体でないから、やっつけるんだ。恨むんだ。騙すんだ。そんなことをしてしまったら、台無しですよね。一体なわけだから。
で、それが科学的に、素粒子はそのような動きをする。
電子はそのような動きをするというのを、僕は10代の頃に、量子力学の先生に、東大の教鞭をとってた方ですけども…その人に習って、その人と一緒に与論島にリゾートを創りました。
それはπって言うんですけど、では3.14のことで、電子がグルグル回ってるっていうことなんですね。
それが乱れると、エントロピーが増大するっていうふうに彼は言っていました。
そういう、電子が綺麗に回るっていう、要は癒しというような、イヤシロというのですかね。
そういうものが分子になっても存在すると。
その人はそういうことを研究されていたんですね。
それが、自分が通常の企業をやめて、ミサワホームとか、ミサワリゾートというのを創ったり、アップルコンピュータも副社長とかやっていましたけども、そういうのを全部捨てて、辞めて、結局癒しの仕事、ヒーリングとかをほそぼそとやってきましたけども
やっぱり若き日に、その量子的なことを学んだことがすごく大きかったですね。
この世界は一体で、量子、電子は、要は分離を嫌う。
で、みんな分子でできているけど、分子は素粒子でできています。
また、電子を帯びている。
だから、結局分離を嫌うんですね。自らも。
だから、自分のことを好きになれないとか、愛せないとか、自分を罰するというのは、そういうところから来るんだと思うんです。
だから、傷つけられることは全然、分子は乱れないんですよ。
バカにされた、笑われた、やっつけられた。
まったく、素粒子は、電子は乱れない。
ところが自分が攻撃する。恨む、憎む、やっつける、騙すとなると、大変なことになってくるわけです。
多分それを、古代の人たちは知っていて、ムーの人々も、縄文の人も知っていて、だから和することを何よりも大事にして
で、出戻りだったイザヤさんも、要は和すること、和すること、要は、古代ユダヤの人はただただ、聖書も、実際はそうだと思うんですね。
一体であること。他の団体、他のものを尊ぶ。愛する。他の国、他の人々を大切にするという想いがあったと思うんです。
それは、相手を勝たせるということよりも自分が良くなるためには、それしかないんですね。
自分を真に、自分は絶対に愛は捨てない。自分は絶対に、その電子が美しく回るものを捨てない。自分は決して、神を捨てない。愛を捨てない。ということですかね。
僕は、また僕の一族というのですかね。それは、多分元は景教だったと思うんですけれども、またイザヤさんからのこともいろいろとあるんですけども
どっちにしても、和すること。一体であることは決して捨てない。一体であるからこそ。
それはダメになることではなくて、自分は神の子であり続けたい。愛の現れであり続けたい。万物の公務員であり続けたいという願いですね。そういう想い。
それが、愛しさであり、自分を愛せれることだと思うんです。
それは誰でもが本当はそうなんだと思うんですね。
なぜなら、誰でもが分子でできていて、分子は素粒子でできていて、それは、創造の主体の夢のような想念でできているとしたら、そこからしたら一体なんですよね。
一者の夢のような中にいるわけですから…
その科学的事実を人類は今、これから気づいて
そういう文明、新たなる文明を、美しき一体なる文明を創ってゆくんじゃないかなって、すごく期待しています。
まぁそんなことで、今日はお別れしますが、MARTHのたわごとでしたが、それではまた、お会いしましょう!
おやすみなさい。
お相手は、MARTHでした。
はい、追伸です。
さっきちょっと言い忘れちゃったんですけど、愛を失うことが、一番の苦しみだって思うんです。
要は、やっつけられた、殺された、バカにされた、差別された、なんでもいいんです。つらいことが山のように、自我にとってつらいことは、いっぱいあります。
それがあっていいと言っているのではなくて、ない世界にしなきゃいけません。それゆえに、そのために、やはり、愛を失ってはいけない。
誰もが、恨みや、憎しみや、騙しや、ありとあらゆるものに、自分が染まってしまったら、自分の愛が悲しむ。自分の正義や美しさが悲しむということをみんなで気づいて
それが、自らを滅ぼしたり、破滅に向かわせてしまいます。
自分を大切にして、世界をゆえに大切にし、他を愛するからこそ、自らを愛せ、自らを守れる。自らの愛を、正義を守れる。
それだけが、一番悲しいことで、それが守れないことが一番つらいことで、愛を守れない、正義を守れない。
そのことが、何よりもつらいことで
それが神の子、万物の子、愛の子、愛の現れ、万物の森羅万象の公務員としての一番の屈辱で、一番悔しいことで、一番つらいことで
自らを愛せなくなり、自らにメッセージを送らなきゃいけなくなり、自らを罰さなきゃいけなくなることがないように、とわの、この素粒子としてはとわの世界。
いや、電子として、いや、そんな名前ではないでしょう。
とてつもないものとしての生を決して汚さない。
とわの美しさを決して捨てない。
それが何より大切なことなんじゃないかって、つくづく感じます…。
それでは、またお会いしましょう。
追伸でした…。
お相手はMARTHでした。
MARTH
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