古代から伝わる真の繁栄の法則…いつわりである自己を拡大しないときに真の繁栄や、喜びがあるという法則について

古代から伝わる真の繁栄の法則…いつわりである自己を拡大しないときに真の繁栄や、喜びがあるという法則について

はい、今夜も、オープンなトークセッションを行います。
要は、MARTHのたわごとシリーズということでございます。

まず早速、ご質問の方から。
72歳の、教職者の方です。

Q:MARTHさん、あなたの会話を耳にし、大変感銘いたしました。
私は長く、聖職の仕事をしてまいりました。大変な驚きと、何やら喜びのようなものを感じながら、お便りをしています。

MARTHさんが、聖書に対してどのような見解を持っていらっしゃるのか…中丸さんとの対談を聞いて、ご質問させていただきます。ぜひとも、お答えください。

という誠実なメッセージを頂きました。

まず、先生にご理解いただきたいのは、たまたま私の一族は長い間空海の開いた淡路島の寺だったようで、

千年以上続く、空海が開いた寺と言われていて、昔は近くに神社も一緒にあったようです。

そして、玉ねぎ畑をやりながら、代々、寺を守っていたようなところがあるようです。

ということは、景教ですから、先生と同じくする、イエスの会話というところがあるのかもしれません。

しかし私は、宗教に興味がなかったし、小さいときから何かに所属したことはないのです。

ただ、そのような関係があって、家の宗教と言うのでしょうか、それは真言宗です。そして母方は禅宗です。母方も寺でした。

また、古代から、そういう意味では景教であるのかなと想います。

そして父方の家紋が下がり藤で、母方が上り藤であります。
古代の、それがどうだったかは別として、最近分かってきたことは、やはり父と母の教育が、傷つけられても傷つけない。
他を愛する、尊ぶ。うぬぼれない、過信しない。

勝たない。良くならない。すごくなろうとしない。というような価値観なんですね。
そしてそれが、先生が今おっしゃる聖書と非常につながっているということを今は感じています。

ですから、私は聖書というものに対して、どの宗教にというふうには、今は気づくことはできません。

まぁ、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教というのは全部聖書。
旧約聖書を愛しています。

そして私の捉え方を言ってみろというお話だと思うので、もし、それを伝えさせていただくとしたら、あれは古代ユダヤの人たちの手引書というのでしょうか。成功するための、平和に生きるための、幸せに生きるため、繁栄するための手引書ではないかというふうに私は、個人的にはそう思います。

詳しく読んだわけでも、知ったわけでもなく、最近、部分部分見させていただいたりする中では、そのように感じました。

また、自分の指揮をしてくれている方が、アダムという名前なので、その辺も読みました。

で、自分が感じたことは、その最初のことですが、言葉があるということは名称づけがある。イコール分離が生まれる。

それから、五感がある。そうすると自と他という同じく分離が生まれる。
それから、この私たちの目は分子しか見えないので、素粒子が見えないので、つながって一体であるとか、電子がどんなときに喜び、電子が乱れるときはどんなときかということが見えないということもあって、やはり科学者の人たちが先に一体性の大切さを気づくだろうなと思います。

ですから、はじめに言葉があり、知識の果実を食べるということは、やはり分離をしてしまったということを伝えているのではないかというふうに捉えます。

それは私個人の問題です。

そして、分離をしてしまった。これは自分が若き日に量子力学の方とリゾートを創ったことがあるものですから、非常に詳しくその方から、その方は東大の先生だったのですが、その後、大学をちょっと…量子力学にあまりにも傾倒してクビになったのか、ちょっと詳しいことはわかりませんが、辞めてしまわれたので、あれなのですが

彼からとことんそのへんのことを聞きました。
どんな分子が、波動が良いとよく言いますが、電子的に、フォトン的に素晴らしい動きになるのか。π(パイ)という言葉で彼は表していましたが、円周率、要は電子の回り方ですね。

その回り方が軌道が乱れると、星の軌道が乱れるように、エントロピーが増大すると。そういうようなことですね。

腸内細菌やそういったものが、要は細菌の世界というのは、原子変換というか常温核融合するというようなこともおっしゃられていました。

そんな科学の中から、素粒子は一体を好むと。
また、ニューエイジや精神世界を若い日から学んでいたので、そのシディ的なことや、簡単に言えば物質化現象ですね。
想念の、創造主の想念のこの世界が世界であるということや、想念に影響されて、部分部分の私たちも想念が人生を創ることができると。範囲があるということを、学びました。

で、そんなところから、旧約聖書みたいなものをですね、見させていただいたときに思うのは、アダムの話なんですけども、アダムが裸だってなぜ分かったのかと。神様が…神様というのはやはり個人神様とか団体神様ではなくて、創造の主体のことを言っているのだろうと思うんですね。

その、なぜ恥ずかしさを知ったのか。それは知識の果実を食べ、知識をつけたからではないのか。分離したからではないのかというふうに天が聞くと。

それに対して、自分のせいじゃないと。要はそれは、あなたが与えた女が勧めたのだと。自分のせいじゃありません。自分を叱らないでください!
ああ!君は自我となったんだねと。

そういうふうに捉えます。

そして、今度はイブの方に、イブさんの方に聞くと。
いや、それは蛇が言ったんだ。私のせいじゃない。
ああ、あなたも自我化したんだねと。

で、神様の創った無我な楽園。要は、自我の恐怖や恐れ、恥ずかしさやいろんなものがない。そしてすべてが、果実や水や空気が与えられていて、そのまま生活できる楽園だった。それから出たという、まずそれに関しては物語なのではないかと。

だから、その聖書の他のところも全部そうなんですが、一体で生きるように、愛で生きる。つながっているということを伝えている。

そうでないと、自我が勝とうとしたり、偉くなろうとしたり、すごくなろうとしたら、台無しだよ。要は、突起しないというのでしょうか。
何というのでしょうか。出る杭にならないというのでしょうか。
自己拡大をしようとしないときに真の成功や繁栄や、喜びや安らぎがあるんだということを伝える書物なんじゃないかというふうに、ヤマトゥの民として、私たち日本人は捉えてゆく必要があると思います。

だからたまたまそういう学びの一族の中では、なんで僕は勝ったり、偉くなりたいとかすごくなりたいというふうに思うと叱られてひっぱたかれたりもしましたので。
過信するなと。他を、滅ぼされようが、バカにされようが、やっつけられようが、いじめられようがいじめない。
要は行為手にならないことが大切なんだと。

それが、愛として他を愛すること、他を勝たせること。
そんなふうになっているのではないかなというふうに思います。

運動会で、小さなときに、僕は足が速くてリレーの選手だったり、徒競走とかすると必ず一番になってしまうんですね。
それで、それのときに父親が、案の定一等賞になったときに怒って帰ったんですね。

で、「お前は、負けてあげる余裕や心の大きさはないのか!」と、言われたんですね。

で、そういうので嬉しがるような人間は、哀れだと。
そういう捉え方を古代ユダヤの人はするのではないか。
そのことによって、真の安らぎや繁栄を得ようとするのではないか。
というふうに、今は思っています。

子どもの頃はあまりそこはわからなくて、なんで叱られちゃうのか。みんなは叱られないのに、なにかできると、良くなると褒められるのに、自分は逆でした。

だから、その意味があまりよく、ちゃんと言ってくれないので、わからなかったんですけど、それは古代ユダヤの人たちの教え。要は聖書ですね。その中に垣間見ることができます。

ずっとそれを貫いて、その手引書っていうのでしょうか。真の成功や真の豊かさは、傲慢とか、過信とか、うぬぼれとか、そういうものを持ってはならないと。

要は、万物は一体なのだから、ひとつなのだから、心臓の細胞も、肺の細胞も、どこに生まれようが、全体とみんなと共に生きてるんだと。

そういうときに愛があり、安らぎがあり、共に愛しむことができ、だからこそ、素晴らしく、素晴らしい人となり、ある意味、真の豊かさや真の平和や、幸せを得るんだ。
そこから生きるから、真に物質的にも、分子的にも良くなるんだと。
身体も含めて良くなるんだというように、要は手引きしている書物というのでしょうか、そういうものなのではないかなと、今では捉えています。

ちょっと長くなってしまいましたが、ご質問の答えになったかどうかわからないのですが、自分はそのようなふうに、ちょっとだけの知識しかないのですが、聖書のところをちょっと見させていただいたときには、あらゆる、見たところが全部そのことで埋め尽くされているように見えました。

また、そのへんがご興味ございましたら言ってくだされば、またいつでもお伝えします。

それでは、MARTHのたわごとでした。
それでは失礼します。おやすみなさい。

MARTH

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