#98 分離の価値観から生まれた防衛の城を崩れるに任せるなら、素晴らしい世界が待っているという科学的秘境の価値観とは…(オープンセッション)

#98 分離の価値観から生まれた防衛の城を崩れるに任せるなら、素晴らしい世界が待っているという科学的秘境の価値観とは…(オープンセッション)

はい、今夜もMARTHのたわごとのお時間がやってまいりました。
では、今日も、たわごと のたまりたいと思います。

まず、ご質問の方から…。

Q:MARTHさんがいつもお話しされています、自我の分離の防衛の城は、崩れるに任せなさい。とおっしゃる意味がよくわかりません。

お伝えいただきたく、お願いいたします。

ということです。

はい、確かにおっしゃるとおりで、このことは本当に難しいです。
この世界は今分離社会、自我社会ですね。
我を守る。自我を守るというのは、ある意味ほどほどのレベルにおいては問題がないと思われますが、これが過剰になっている世界。ケンカや争いです。
分離の苦しみの世界の中では非常にわかりにくいことです。

これは、精神世界では“秘境的”というのです。秘密の教え。
要は、それぐらい一般の価値観ではわかりづらいのです。

一般の価値観とは分離、自我世界の価値観を信じている場合は、この秘境というのは、秘密にしなくてはならないほど、難しい教えであるという意味だと、捉えていただくといいと思うのです。

ですから、よくわからないのは、わかりたくなくなっても当然なのです。

自我があるともし信じていたら、我があると思っていたら、我が生まれたと信じていたら、当然、防衛しますよね。

で、この秘境的価値観というのは、天は自我を創っていない。
死とかも創っていない。これは人間が創った価値観、観念であるというところにまず目を向けていただきたいです。

ああ、確かに、天は、神は、万物は、自我というものを創ったわけではない。
確かに五感とか、そういったものは便利なために作ってあるけれども、そこから自我、要は分離社会、名称付けをして、名をつけて、意味をつけて、未知で神秘で一体なものに分離させていったのが、人類です。

そして、そのような文化や文明を作ったのも、私たち人類です。

で、それを信じて、観念になって、観念というのはカルマのことですから、観念はカルマ化した作り事。というところから見れば、自我の、要は分離の防衛の城というのは、幻の城であると。

で、それは、崩れるに任せても問題がないという、秘境的価値観です。

これは、こうやって考えるとわかりやすいのですが、100人の崩れるのOK!という人たちの部屋、教室みたいなものが、このぐらいの大きさの…体育館でもいいですね、100人の、もう崩れていいよ、自我なんかないから、壊れるに任せているよ~という人たちの部屋と、絶対壊れてたまるか~!自我を防衛するぞ!やられてたまるか!やっつけられてたまるか~!絶対許さんぞ~!

という人の100人の部屋が、どっちが安全か、ということです。

そのようなことが秘境的気づきだと思うのです。

防衛をしていない。人類が自我の防衛をしていない地球ですね。そのときは楽園と愛の世界が生まれる。

また、100人の、猜疑心というか、自我と、死や、いろんなものを信じて、分離を、戦いを、競争、比較を生み出してしまっている世界とは、どれぐらい違うのかと。

ですから、壊れるに任せたり、崩れるに任せたら大変なことになるじゃないか~というのが、この分離社会で普通なのです。

だけど、それで安全になりたくてせっかく思っているのに、逆に安全にならないよと秘境は教えているのです。

要は、より危険になりますよ、と。
他を愛し、愛しみ、愛し愛され、思いやり、良きところを見つめ、我の防衛を捨て去ってゆく。崩れるに任せる。
壊れるに任せるなら、素晴らしい世界があると。

この、自我という分離のことを妄信して、戦って、競争して、比較すると、せっかく安全を求めたり、せっかく成功を求めたり、豊かさや繁栄を求めているのに、逆になるよ、と。恐ろしい世界になるよ、と。

そのような意味で、MARTHは、世界が今、病んでいる。苦しんでいる。悲しんでいる理由は、そのためだと。自我の防衛のためだと。それが80億人近い人がみんな、もしそれを信じているなら…。

実際の人数がどれぐらいかは別として、沢山の人が、自我の世界、分離社会を信じ、発信し、そこからメディアも、すべてが悪気でなくて、そう信じて、戦い、競争し、比較し、殺し合い、戦争し、裏切り合い、毒をまき、殺し合い、騙し合うというのが、哀れだな、悲しいな。寂しいな…。

せっかく天は美しく、愛の世界を創ったのに、それを楽しんでもらいたい、謳歌してもらいたい。そしてまた、変化としての、私たちはそれを“死”と捉えているけど、別の電子のレベル。素粒子の真のレベルに還ってゆくということも人類は知らないし、また、電子的世界。原子的世界。素粒子と私たちが呼ぶ、そういった未知なる本当の世界を、私たちは知らない。

そういったことを含めて、愛を生きれない。愛しさを生きれない。
恐怖で、つらさで、怖くて、自我の恐怖で、分離の恐怖で、戦いの恐怖で、比較の恐怖で、人目や、差別や、またさげすみや、そういったことに恐れて、分離の中でみなが幸せに生きれない。

天が用意した、神が用意した、森羅万象が用意した美しい生をみなが生きれない…。

それは悲しいことだなぁと。

そして、私たちがその秘境が言うように、壊れるに任せることができるかと。

自己防衛、自我防衛のために創ってきた城。自分たちが必死になって戦って守ってきた、他の民族と、他の隣人と戦い、他の民族と、他の国の人々と戦い、他の団体と戦い続ける悲しみのこの生。

分離の社会の生。生きること。これは天が望んだ、天が創ったものじゃない。

天は、神は、自我を創っていない。
人間が作ったもの。

死という価値観も、神が創ったものじゃない。その変化を、電子レベルを、その分子が、実体がないということ。

その科学が、ずっと気づかれなかった。
なんだ。分子というのは実体がないじゃないか。
分子を調べたら、原子じゃないか。分子を調べたら電子じゃないか。

電子は、想念でできているじゃないか!
これは物質映画じゃないか!現実じゃない。

ましてや、意味づけたり、名付けたりしても、実体は未知で神秘なままだ。永遠に、神秘のままだ。

とわにはかり知れない。とわに、この世界は宇宙のはてのはてはどこまでもゆく。永遠に。

それよりも、外、外よりも外。ミクロよりミクロ。どこまでもミクロ。
マクロよりマクロ。どこまでもマクロ。

この世界は、まるで夢のようだ。だから宇宙の果てでも一瞬に素粒子は行ける。
宇宙の果てまで全部同じ素粒子だ。まるで夢のように。私たちも夢の中では、宇宙の果てに一瞬で行ける。未来にも、過去にも。

一瞬で行ける。夢の中なら、いつでも行ける。

この世界がもし夢のような想念の世界なら、プラズマの中では、それが起こってしまう。シディの中では、それが起こってしまう、はかり知れない世界だということを、私たちはまだ、学べていない。

人類はそのことを知ることになるでしょう。

量子力学は、それを現してゆくことでしょう。

今、そういうところに、人類は差し掛かっています。

ですから、MARTHがそのようなことをもし、過去言っていたのだとすれば、崩れるに任せなさい。壊れるに任せなさい。自我の防衛の城など、と言ったのは、これは秘境的価値観であって、自我は存在しない。

私は存在しない。生まれていない。
生きてはいない。ただ、物質映画の夢の世界である。

それは量子力学が見つけた、美しき法則である…。

そういう意味で、それを失えば失うほど、その観念を失えば失うほど、美しくなり、安全となり、繁栄し、豊かになるという、教えです。
これは秘境的教え。逆に、自我を強めれば強めて、防衛すればするほど、危険となり、危なくなり、メッセージが来、トラブルが来、成功は壊され、繁栄は壊され、豊かさはとんでもないことになり、苦しみ、自らを嫌いとなり、家族が崩壊し、あらゆるトラブルが突然起こり、破滅し、崩れ、本当に崩れてしまう…。

逆に、防衛を捨てれば捨てるほど、素晴らしい人生が待っている。元から、そんなものはないのだという天からの教えだと、私は感じております。

ただ、MARTHのたわごとにすぎません…

それでは、ここから先、インナーの方に移ってゆきます…。

それではまたお会いしましょう!
お相手は、たわごとMARTH。
名字がたわごと。MARTHが名前。
たわごとMARTHでございました!
それでは、失礼いたします!

MARTH

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