#53 真に科学的事実から見ると、人類の苦しみの原因は分離という自我性にある
#53 真に科学的事実から見ると、人類の苦しみの原因は分離という自我性にある
はい、今夜もトークセッションの時間となりました。
たわごとのお時間です。
早速、メッセージ、ご質問の方からお読みしたいと思います。
Q:質問です。最近、MARTHさんのおかげもあって、自分の中の分離がとても気になります。
悔しさや怒りや、また競争心。負けず嫌い。MARTHさんがおっしゃるような、自己拡大、自己主張、とても強い。そんなふうに自分で感じます。
ぜひ、それらのものを終わらせてゆきたいと思います。
MARTHさんは、それは分離社会の影響であるとおっしゃっていました。
長年のトレーナーの経験から、そのように感じているということをおっしゃられていました。
そのようなことも含めて、僕は分離を終えてゆきたいです。
ぜひ、サジェッションをお願いいたします。
ということで、ご質問をいただきました。
まぁその、おっしゃるとおり、この社会が分離社会で、その土台の上に成り立っているわけです。
逆に言うと、分離社会という土台が崩れてしまえば、人の自我性も崩れてしまうことでしょう。
それはとても素晴らしいことで、もしそのことが起こったら、人類は本当の平和を手に入れるし、至福や愛を手に入れるでしょう。
それは、人間だけではなくて、この宇宙にあらゆる生命、あらゆる鉱物、また、素粒子の世界。
ありとあらゆるものが、一体性を取り戻して、愛を取り戻すこととなるでしょう。
分かたれている、という分離の価値観は、世界を覆っています。
ですから、逆から見たらどうでしょうか。
それは、分子、または分離、というところからものを見るのではなく、素粒子レベル、原子レベル、またプラズマレベルでものを見るのです。
そうしますと、すべてはつながってぼや~っとした映像に見えます。そして、どこからどこまで私だか、五感もないし、言葉もないし、知識もないので、わからなくなります。
この溶けた状態からすべてを見ていってみるというのは、どうでしょうか。
要は、私が確認できない。私がどこまでかわからない。私が存在しない。私が勝つ。私が良くなる。私が偉い。私がすごい。すべてが崩れてしまう。そのような自我があってこそ、考えられることですね。
自我がなかったら、考えられないこと。どんなことでしょう。
自我があるからこそ、勝つとか、すごくなるとか、偉くなるとか、負けるもんかとか、
悔しいとか、つらいとか、誰が?と。私。
要は、自我があるからこそ、体験できる悔しさ、怒り、苦しみ、つらさ、自己拡大、自己主張、自己高揚。
これらすべては自我があってのことです。
もし自我が存在しないということになったら、生まれていない。生きてもいない。私はいない。
じゃあこの、今まで私と呼んできたこれは何か。万物の一部に過ぎない。
未知なる神秘なる万物の、一部。現れに過ぎない。
私は存在していない。というのは、そのような意味です。
無我とか、無心とか、真我だとか、一元だとか。
一者だとか、すべて。
私が存在しない。私が存在しないというのは、まるで細胞さんのように、一生懸命生きて、身体のために貢献するけども、細胞さんは誰か。細胞さんは、その人自身である。
と同じように、あらゆる生命は万物の一部なのです。
そうやって生きた時に、すべての面倒は万物が見ます。いや、それを神と呼んでもいいし、存在そのものと呼んでもいいし、大自然と言ってもいいと思いますが、
私たちはその公務員であり、その現れであり、その一部、分身です。
創造の主体の分身であるゆえに、私たちはそのように生きた時に喜びを感じ、愛を感じ、安らぎを感じ、真に豊かに、真に幸せに、真に生きがいを感じると、つくづく感じます。
ということで、今日のバックの音楽は今月レコーディングする、新たにニューアレンジをした「愛しているから」今お届けしています。
これが本当のオーケストラになって、ドヴォルザークホールで140人ぐらいの方々の演奏でお届けすることが可能になりました。
それでは、またお会いしましょう。
MARTHのたわごとでした。
MARTH
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