#84 「恐れに基づく在り方から、一体性に基づく愛と正義の在り方へ戻るとき、人は真の自由を手にする…」(オープンセッションのみ)

#84 「恐れに基づく在り方から、一体性に基づく愛と正義の在り方へ戻るとき、人は真の自由を手にする…」(オープンセッションのみ)

はい、今夜もたわごと。
MARTHのトークセッションの時間がやってまいりました。
早速、ご質問の方からお読みしたいと思います。

Q:MARTHさんが在り方について、以前お話しされていることがありました。
その時、とても感銘を受けたのです。
何かそこに、人類の深きテーマがあるように感じました。
ぜひ、そのような在り方について、お話しいただけないでしょうか。
ということですね。
在り方、ということは一体性。安らぎ。万物性。愛。愛しさ。
という側にあるということです。

その時は安心感がありますから、物事をするときに、何をするにおいても、自分というか、万物の一部として、いい仕事。
人類のためになるとか、自然界のためになるとか、自らの愛が、自らの善良さが、自らの正義が、自らの中にある正しさが創っていったり、クリエイションしてゆくのです。

だから、自分が納得できることをしたいし、自分が正しいと思うこと。
正義で思うこと。で、これが万物の在り方ですね。愛の在り方。正義の在り方。本質の在り方です。

これが、小さい時に怖いこと。恐怖がすごくあって、または先祖代々、すごい怖い!という、恐ろしい!というところから
戦いや自己拡大や、闘争、また猜疑心。要は恐怖に基づいたものです。

そういう思いで生きた場合、自分が見ているものは恐怖に基づいて、人がどう思うか。社会がどう思うか。怖い人が、強い人がどう思うか、ということで、行動しますよね。これは、無理もないことです。

ですから、あの人が恐ろしい。この人とどちらが恐ろしいのだろう、みたいな選択を人生でしてしまいますね。要は、恐怖があるわけです。小さい時に…。

で、恐怖は必ず分離から生まれるんです。自我がないと恐怖はないので、結局自我が形成されるときに、分離の強い人々や、分離感が強い恐怖の大きい、分離感が強い。一体性が、安らぎが、副交感神経が、と医学では言うのでしょうか。
または、脳内物質がいっぱい出て、安心感がある。
要はイヤシロである。
そういう精神状態ではないわけです。

分離して、恐怖で、それで周りの様子を見ながら、様子を見ながら、嘘をついたり、騙したり、逃げたり、ごまかしたり、合わせたり、という恐れに基づいて、初めに分離があって、分離…要は自我ですね。
分離があって、恐れがあるから、分離が真実だと思いこむと、当然怖いです。

自と他があるわけですから…他が攻めてくる、やっつけるんじゃないか、見張られているんじゃないか。殺されちゃうんじゃないか。怒られるんじゃないか…。

そうしますと、人生が見つからなきゃいいやとか、騙せればいいとか、ごまかせればいいとか、やっているように見えればいいとなりませんか?

まず、分離があって、自我の世界が、社会があって、その人のせいというよりも、社会や、また家庭や、いろんな家ですね。先祖も含めてです。
分離が激しい、つらい思いをした、とか、苦しい。分離の中で苦しいんだ“ということになったら、当然そこで敵対心や恐怖心ですね。
敵対心ということはイコール、敵対しているんだって思っている人も、実はそこの背景には恐怖があって、敵対しているのです。

やられちゃうんじゃないか!とか、絶対やっつけるだろー!絶対、殺すだろー!絶対、こうだろー!というような、分離からくるのがずっと先祖の方や、また家族の方もそのように思っていて、そのエネルギーのなかで、そのような…赤ちゃんのときでも、子宮の中でも、分離の価値観が強いと…。

だから、妊婦さんは、一体性とか安らぎとか、愛とか、そういった中に包まれていた方が、赤ちゃんは安心しています。

そのような中で人生を見ていった場合、その一体性とか、愛とか真我とか創造主体とかの安らぎの在り方から生きてないので、物事をするときに、僕は、オレは、私はこう生きたい!こう、真っ当に生きたい!とか、いいものを自分は創りたいんだ!とか、正しいもの、素晴らしいものをやりたいんだ!というのは、自主的ですよね。

要は、癒されている状態。イヤシロの状態では、自主的にできるんですね。物事が。
ところが、すごい分離と恐怖と、その猜疑心と…ということになると、見つかるとか見つからないとか、見られてるとか、怖いとか、怖い人がどう思うとか、上司が、とか、そういう恐怖に基づいて、見つからなきゃいいや!
そのとき、その人は、ちゃんとやるでしょうか。

物事をちゃんとできるのでしょうか、という問題が出てきます。
とりあえず、そう思われればいいや!とか、当然その、そういう在り方として恐怖に基づいていれば、当然、見つからなきゃいい、思わせればいい、やってたと思われればいい!って思いませんか?

だから、仕事がミスることが多くなり、その完璧な仕事とか、素晴らしいことができなくなっていってしまって、本当はそういうことをしたいのだけれども、そもそもやってないんですね。

何をやっているかといったら、見つからないことをやっていたり、良く見えるように、見える人に主体が行っているのです。

人に、主体があるのです。
人がどう思うかに。世の中がどう思うか、人がどう思うかに、自分が愛の化身として、万物の子どもとして、これをやりたいんだ!これをやり抜くんだ!いい仕事をするんだ!それが大きい仕事も小さい仕事も関係なくて、ちゃんと自分はこれをやりたいんです、と。
しっかりやりたいんです。素晴らしく、美しく創りたいのです。
というのは自主的ですね。

それが、外に行っていないのです。意識が。
で、こう在りたいんだ。愛しさの元、愛の元、一体の元、安らぎの元、癒しの元、すばらしいことをやりたいんだ!
せっかくやりたくても、やれなくなってしまわないでしょうか。

例えば、その恐れに根付いてしまうと、見せることばかりになってしまう。本当にその人の持っている、美しい魂というか、本来天からもらってきた才能とか、美しさとか、素晴らしさがあって、それを出していい仕事をこの地上でする、いい役を、この地上で生み出す。創り上げる。あの方に頼むといい仕事をされる。
いいことをなさる。素晴らしいことをやってらっしゃる。やることができる。いろんな技術においても、何においても。

これは国でもそうですね。
特に日本の人は、そのような在り方がしっかりしている人が多いから、本当にいいものを、誰に何を言われて、上司がどう思おうが、世の中がどう思おうが、いいものを創ろうという人が沢山おられますが、あまりにも恐怖政治になったら、いいものを創るよりもどう見せるか。どう演じるか。どう思い込ませるか、という主体が外に行ってしまいますね。

自らの在り方ではなくて、自らの在り方で物事を生きるのではなくて、外の人をどうごまかすか、騙すか、思わせるか。人気者に見せるか、とか、そういう本物を創ることよりも、外側のことに意識が行ってしまう。
これが、悲しみですね。これが、人類の悲しみです。

そこが、一番のテーマかな。恐れと安らぎ、イヤシロと、ケガレチ、穢れですかね。要は、穢れって実は恐れなのですね。
分離の。
分離の恐れは、どこかで分離の終焉、自我の終焉を試みて、愛に還る。どんな人も、元は愛ですから、一体性ですから、神の化身。
創造の主体の化身。または、真我の化身ですから、そうじゃないものはないのです。全部素粒子、原子…みんな、それでできているのです。
だから、愛、一体性、でもこの分離社会が今、長く、一万年…もっとかもしれませんが、続いてきた中で、社会が今分離社会なんですね。
恐れ社会。分離によって、根付いてしまっているのです。
それが残念です。それが人類の悲しみです。

そこから争いや戦い、嘘や欺瞞。要は不正。
正義がない人なんて本当はいないのです。正義の粒子でできているのです。愛と正義の粒子で。素粒子、みんな。
素粒子でできていないものなんてこの宇宙にないし、真我の化身なのです。
神の化身です。その愛の化身で生きれるというのが、在り方が愛の在り方で生きれる。

そのときは、外がどう思うか、他がどう思うか。真に正しいこと。
善良なことを、ちゃんとやるんですね。

素晴らしいものを、万民のためになる。いや、万物全体のためになる。森羅万象全体のためになることを、ちゃんとやろうとするんですね。

ただ、あまりにも子どものとき、小さい時に恐れや苦しみが強かったりすると、それを自分で克服しないと、やっぱりいろいろな問題が生まれて、本来持っている愛の、本質の在り方で生きれなくなるというのは、やむないことですね。

でも、それに戻ってゆくことが、人間のとっても素晴らしいチャレンジだし、その自由。本当の自由ですね。
愛として、神の現れとして、愛としての自由さを取り戻すことは、元がそうですから、試みれば誰でも戻ってゆけるし、そういう分離社会から目覚めてゆけば、逆に分離社会がどんどん目覚めて、一体性の愛の世界になってゆけば、新しい社会が生み出されてゆくことは、間違いありません。

という、MARTHのたわごとでした。
それでは、またお会いしましょう。

MARTH

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